世にコラムなるものの広く行われて久しいが、当節、ハタと打つ類のそれにはとんとお目にかからぬ。 まして、心胆寒からしむるほどに切れ味鋭く、或いは滑らかなる一文に相まみえるは殆ど僥倖と言ってよい。
「あたまをオシャレに―大学番外地から」(筑摩書房)なる一冊も、その表題におけるや、刮目すべき警世の檄とは到底断じがたい。 エイ!そこな軟弱文士め!なおりおれ・・・とまなじり決して挑みかかれば、これは並々ならぬ手練れの文客。いかなる高名の御仁にあらんや。
森毅、巷間一刀斎の名をもって称せられ、京洛の地に在って算学を講じ、門弟数千人を悠に凌ぐとの風評を聞く。
さて、この森一刀斎先生、すでに名人の境に到り、白刃一尖、一刀両断などと野暮なる仕儀はハナもひっかけない。腰に差したる大刀も案外、
竹光で本人はすまし顔なのかも知れぬ。生来、乱暴を好まないのだ。学校の体罰を論じて
「・・・同窓会などで、たたかれたのも懐かしい思い出などと言いだす人が現れたりするが、そんなのは少しも懐かしくない。
・・・イタイのは、死ぬまでいやな思い出である」
体罰は粋ではない。また
「情報にはノイズがあって、嘘がまじるものだと考えている。・・・ぼくが文部省の教科書調査官なら、生徒が発見して喜ぶための嘘の入っていない教科書は、
検定を通してあげない。・・・情報というのは、嘘を抱えて流れるものだ」
嘘もまた楽しからずや。昨今、株で損したお方にはお気の毒ですが・・・。
而して一刀流コラムの極意は?
「外面的なハダカを見せるのと、内面的なハダカを見せるのと、どちらがハレンチか、・・・こうしたものを、ハレンチと思うか、カワユイと思うか、
これまた際どいところである。ま、そうした際どさが、コラムというものの芸ではあるのだが」
「週間宝石」1988年連載。
軽兵衛