妖怪画談:水木しげる

オーストラリア先住民・アボリジニのドリームタイム
(神話)が描かれた楽器「ディジュリドゥ」

妖怪画談:水木しげる著(岩波書店)

妖怪とつきあえてこそ

夏、夜の便所に行くのは怖かった。外にあるので、漆喰のはがれた蔵の横を通らなければならない。 闇の中で蔵全体が膨らんだり縮んだりしている気配がした。
冬、台所のガラスがガタガタ鳴った。 翌朝、吹きだまりの雪の面が鋭い刃物でえぐりとられたようにへこんでいた――。 子供の頃の記憶である。
蔵が呼吸していると思ったのは濃い夜のせいだし、雪面が切り取られたのは夜通し吹いた風のせいだったろう。 だが、頭の奥にツンとする、奇妙な銀色のものが今も残っているのはなんだろう。妖怪の鱗だろうか。

水木しげるさんは、妖怪は「大部分のものは形がない、見ることが出来ない、すなわち、それは感じなのだ」と言う。 そして、その「感じ」は実は目、耳、口や鼻、皮膚の感覚をひっくるめた、あるいはそれを越えた感覚で「見る」ということなのかもしれない。 しかもちょっと昔の人は、その感覚をちゃんと持っていたし、妖怪にとって住み心地のいい(?)地形や時間の中で、おそれ崇めながら一緒に暮らしていた。
でも明るさと暗さの境目がはっきりしなくなり、生きとし生けるものが土がにかえることのひどく困難になった都市では、妖怪たちも生きづらくなってしまった。 わずかに「口裂け女」という妖怪が昭和54年に現れたが、「ある日ぷっつり消息を絶って」しまうのだ。 妖怪とつきあいができる、まともな人間になろうというのは、変な一年の計だろうか。

軽兵衛