ウォーミングUP:子どもたちのサッカー

「楽しく」と「勝ち負け」

サッカーは競技だ。当たり前だが競技は勝つことを目的とする。 やるからには勝たなければ面白さが半減する。
近頃よく「スポーツを楽しくやろう」という意味の記事を新聞や週刊誌でみかける。 内容は勝ち負けにこだわって、それこそ学校でなくて部に入るために進学し、またそうして集まってきた部員を精神主義と猛練習でしごいて母校の名をあげるといった、 高校野球式のスポーツに対する反発である。この反発には大賛成だが、だからといって「楽しくやる」ことが勝ち負けを度外視してよいということにはならないと思う。
問題は「誰が」勝ちたいと思うかだ。まず子どもたちは十人が十人「勝ちたい」と思う。これは自然だ。 ゲームをやって勝ち負けに超然としているような子どもがいたらヒネすぎていて気持ちが悪い。 すぐにボール蹴りに飽きて土いじりや虫追い掛けに行ってしまう子どもでも、ボールが自分の所にある時は一生懸命ボールを取られまい、なんとか相手のゴールの前にボールを持って行こうとする。 それで好いのではないだろうか。そしてそれだけで好いのではあるまいか。

我々のチームが他の小・中学生のチームと対戦することがある。子どもたちはどちらのチームも勝とうと思って一生懸命やっている。その上に相手チームの付き添いの大人が、びっくりするほど大きな声で横からドナる。 それも単なる声援や拍子でなくて、大部分、叱声と戦術上の指図(監督・コーチ・サッカーを知ってるお父さん)だ。いちばん「勝ちたい」のは実は外野では? これが困るから我々のクラブは生まれた。

身体でおぼえる習慣

試合をやれば、勝ち負けがハッキリしているから、子どもは勝ちたがる。そこへ「どうやれば勝てるか教えてやろう」と大人が言うと、子どもはついつられて言うことを聞く。 そこが大人のつけ目で、子どもを教えるんだと好い気になってしまう。サッカーを知らないコーチほどその傾向が強い。 しかも知らない分だけ精神主義になって、挨拶がどうだの、行儀が悪い、負ければ罰にグラウンド十周となる。 けれども中学生ぐらいまでの子どもたちに、つまらぬ作戦 (危なくなったら外へボールを蹴り出せ、一人で持たずに早く球を離せ、バック・パスをやれ、ボールに集まるな等々)を教え込んで「勝たせた」ところで、どれほどの意味があるか?

小学校でも中学でも高校でも、そして大学でも社会人でも、どこでも勝とう、それも教えて勝たせようというのでは、塾と同じことになってしまう。 しかも教えることがどうでも好いようなことで、それを教えられたことで代わりに失われるのが、この場面ではどういうプレーをしたら好いかと自分で判断する習慣、 またごちゃごちゃの中でボールを取られぬようキープする力といった、まだ体の柔らかい子ども時代にしか身につかない、理屈でなくて身体でおぼえるといった能力となればどうか?

そして何よりサッカーをする楽しみが大切だ。我々のクラブの子どもたちはボールが好きだ。 たしかによく負ける。でも負けてもカラッとしている。勝てばもちろん素直に大喜び。勝っても叱られている他処のチームが気の毒になる。 そうしたノビノビとした子どもたちから、閃きのあるプレーができる選手、また自分の子どもに自分がしたようにノビノビとサッカーをさせる大人を気長につくりたい。

西本晃二(東大教授・少年サッカーコーチ/武蔵野市)