通勤時間と恋愛

勤め帰りの生態

イラスト:ネモトヤスオ

これは友人の話である。私の友人は長らくK市に住んでいた。三年前にM市に移ってきた。同じく中央線の沿線ながら、新宿を起点にしていうと電車に乗っている時間がほぼ半分ですむ。 友人にはその半分がこたえられない。むろん、ほかにもいろいろ違いがあるという。
一つだけ紹介しておこう。夜、勤め帰りに乗り合わせるサラリーマンの生態が、まるで違う。 途中駅――ちなみに私の友人は丸の内の会社に勤めているのだが――神田や御茶ノ水や四谷で乗りこんでくる数人連れのうち、陽気な方は決まってM駅までに降りていく。 ことば少なに応答していた相手を尻目に、少々肩をそびやかして去っていく。長らくK駅まで通っていた友人には痛いほどよくわかる。この先、まだ両手で数えるほどの駅を立ちんぼうしていかなくてはならない。 その後長いバスの列、そのあと街灯の下のひとけない道。それを思うと口数も少なくなるというものだ。しかし私が紹介したかったのは、この先の話である。

通勤時間と恋愛

私の友人はよく恋愛をする。べつだん家庭を壊すほどでないが、少々の波風はたつ。 この恋愛好きの言うところによると、それは大いに通勤時間と関係があるという。K市時代とくらべて、ずっと近いM市の今は、とんとその方面に身が入らないというのだ。何か気合が不足している。 乗っても乗っても駅数がへらない中で吊り革にぶら下がっていた頃、別れてきたばかりの女性のうしろ姿がいとしかった。その間の時間が半分に短縮されて、いとしさも半分に減退したようである。 帰り着くまでのあの絶望的な空しさをまぎらわすために寄り道していたのかもしれない・・・。 友人の話を聞きながら、同じM市の住人である私はふと思った。
よきM市婦人たちよ、夫がいそいそと戻ってくるからといって、家庭がいとしいからというのではなく、要するに適度の近さにあり、適当の時間で帰りつくので、 わざわざ寄り道するのが面倒なばかりにまっすぐ戻ってくるだけかもしれないのだ――と、ときおり思い出してごらんになるのも悪くはないのではなかろうか。

池内紀(エッセイスト・ドイツ文学者)