原生活都市の時代

新しい街

イラスト:ネモトヤスオ

渋沢栄一の命を受けた息子の渋沢秀雄は、一人欧米の都市を巡っていた。日本の歴史が明治から大正に変わったばかりの頃である。 まだ若かりし秀雄が父親から受けた使命は、ヨーロッパやアメリカの各地に生まれている“ニュータウン”を視察することにあった。 明治の日本を、一人前の資本主義的国家に育て上げることに多くの貢献を果たしていた渋沢栄一の、まだやり残っている仕事の一つとして当時彼の頭の中にあったのは、 欧米の強国に負けない“新しい街”すなわちニュータウンを建設することであった。

丸の内界隈のオフィスビルなど、業務地域を欧米と同じように近代化することではまだ足りない。 そこに勤める近代国家・日本の担い手である人々の、新しいライフスタイルを持った“まちづくり”を行うことで、はじめて、 日本の完全な近代化をキャッチアップすることができるというのが彼の考え方であった。 すでに関西の事業家小林一三は、阪急電鉄の宝塚に至る郊外で、新住宅地の開発を進め大成功を収めていた。

東京郊外もそれに負けない新都市づくりを展開するために、渋沢栄一らによって新たに設立された田園都市株式会社は、まだ草ぼうぼうの調布の台地を開発するための組織であり、 秀雄はその新規事業の強力なスタッフでもあった。

嬌雑なエネルギー

欧米視察における最大のターゲットは、20世紀初頭の最大の発明とされるエベネーゼ・ハワードによって建設された“ガーデンシティ(田園都市)”であるロンドン郊外のレッテルワースなど、 ニュータウンの視察であった。 しかし若い秀雄がロンドン郊外の都市に見たのは、計画概念だけが先行した活力の少しも見られないタウンであった。 逆に大いなる感動を与えたのは、帰りに寄ったアメリカの新興都市、フィラデルフィアやサンフランシスコの嬌雑なエネルギーであった。

そこにあったのは計画された都市ではなく、新しい都市生活者の活力に満ちた“アーバンライフスタイル”を飲み込んだ姿だったのである。

ハワードは“ガーデンシティ”を<田園と都市の幸せの結婚の結果>であるとしたが、渋沢秀雄の目を通さなくても、決して幸せな結果は生みださなかったようだ。 むしろそれよりも、新しい都市文明と、それに拮抗できるほどのパワーを持った都市居住民のエネルギーがメルティングした結果としてのアメリカ諸都市に、明日の都市は存在していたと思える。

武蔵野の諸都市は決してガーデンシティではない。都市自体が21世紀の“都市の生活の型”を生みだす、“原生活都市”でなくてはならない、と私は想っている。

望月照彦(望月照彦都市建築研究所/(株)キャル・コーポレーション/日大講師)