えんじょいすとVSフェミニスト

女のネットワーキングを「女縁」と呼んで、女縁をエンジョイしているゆとりのある主婦層を「 縁女 えんじょ いすと」 としゃれてみた。

ところでえんじょいすととフェミニストは同じだろうか。 えんじょいすとは夫と相互不干渉・無関心の伝統的な分業型夫婦関係を維持した上で、カネとヒマをフルに活用した人たちである。つまり早い話が、夫とプッツンした上で、夫が与えてくれる恩恵は手放すまいとガッチリ握っているというわけだ。

他方、フェミニストはどうか。フェミニストは、男とまともな関係をもとうと悪戦苦闘したあげく、うまくいったケースは夫婦関係のあり方を互いに向き合うものに変えてしまっているか、 さもなければ、うまくいかない関係に結論を出して――つまり離婚してしまっている。

離婚した女性が、どんなにきびしい状況に置かれるかは先刻ご承知の通り。 彼女たちの多くはシングル・マザーだから、子どもをかかえて生活に追われると、女縁どころではない。

えんじょいすとの多くは、夫との関係を変えようと努力した経験はあるが、もはやその試みにノーという結論を出して、その上で結婚にとどまることを選んだ人たちである。 彼女たちは間違っても離婚を選ばない。 離婚したら最後、えんじょいすとの生活基盤がガラガラと崩れることを、誰よりも彼女たちがよく知っている。 それどころか、女縁はどうにも変わらない夫との関係に見切りをつけた女たちが、それならと開き直って目をヨソに転じた結果のようにも見える。

女にソンな社会で、離婚のようにソンなことを本気でやってしまうのは、不器用で正直なフェミニストだけである。 えんじょいすとは、そんなソンな選択はしない。男にプッツン、なのはどちらも同じだが、向きがまったく違う。

男社会と対抗するフェミニストと、男社会を逆用するえんじょいすととは、どちらが有効か、ウーン、にわかには決しがたい。 「敵にまわす」より「うらやましがらせる」方が、もしかしたらうまいやり方かもしれないからである。 でも「オレもえんじょいすと、やりたいよォ」と夫が言い出したら、まっさきに困るのはえんじょいすとの妻じゃないだろうか。

上野千鶴子(社会学者)

vol.13(1989年5-6月)より