武蔵野夫人:大岡昇平

こさぎ:原田孝一

武蔵野に住んで5年、また別の街へ離れていくであろうこの土地を今のうちに目いっぱい知っておこうと「武蔵野夫人」を求めて図書館へ走る。 閲覧室に見当たらず、尋ねると係の人がカウンターの奥から、黄ばんだ薄い文庫本を渡してくれた。

「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」
この一行で小説ははじまる。
小金井から国分寺へ。野川沿いの峡(はけ)、崖下の道を主舞台に、人妻道子と復員してきた従弟勉の心の動きを、作家の眼は丹念に追っていく。 野川の源流をたずねて二人はさかのぼる。土地の人にそのあたりの呼び名を聞く。
「『恋ヶ窪さ』と相手はぶっきら棒に答えた。
道子は膝の力を失った。・・・彼女は自分がここに、つまり恋に捉えられたと思った」
恋ヶ窪から流れる野川は更に玉川上水付近へと水脈を辿ることができるという。 異質で重なり合うまいと思われていた水系がかつて、武蔵野台地の懐でそっと手を握り合っていたのだ。
「ただ赤一色に燃え立って迫って来るように思われた」11月、道子の持った白いコップの泡立ちの中から、悲劇は密やかに立ち現れ物語を導いていく。 晩秋の晴れた日、古代の記憶を眠らせた樹と水と土の上にじっと佇んでみれば、或いは詩人が詠ったように
「むさし野に秋が来ると
雑木林は恋人の幽霊の音がする」
のを聴くことができるかもしれない。

ばなな