紙ヒコーキ:大岡昇平

はけの道の欅の梢は、この冬も天を突いています。大岡さん、お元気でいらっしゃいますか――。

大岡昇平(作家)

●野川とともに

私は大正15(1926)年頃から野川に親しんできた。今の小金井市中町1丁目に成城の同級生・富永次郎の家があって、よく遊びに行った。

終戦後、昭和23年、半年ばかり寄寓させて貰ったことがあった。金がないので、国分寺、府中まで歩いたり、野川を恋ヶ窪まで遡ったりした時の見聞をもとにして書いたのが「武蔵野夫人」(昭和25年)である。

恋人たちも野川を沿う、囁きの小径に沿って、恋ヶ窪まで行って、恋を意識するのだけれど、その頃のおもかげは、いまはない。一時汚染がひどくて、その後、土地の人々の尽力で少し持ち直している。

しかし「武蔵野夫人」の頃とは、水路はもとより、あたりの環境もちがっている。
あれは記念碑的作品とうぬぼれている。


vol.5(1988年1-2月)より

イラスト:雪子・M・GRASING