歌のような。

美しい言の葉、雅やかな言の葉を「歌語」「雅語」といいます。わが国の古今の句歌のなかには、こうした歌語や雅語によって綾された、まことに艶やかな作品が、数えきれないほどたくさんあります。まったく任意にその一例をあげるとすれば、たとえば「千載和歌集」から大弐三位の歌

遥かなるもろこしまでゆくものは
秋の味覚の心なりけり

大弐三位

また「平語」「俗語」というのは、歌語や雅語の反対で、ごく普通の日常的な言葉のことです。 これを自由に、しなやかに連合させて、一句または一首をものしようとする試みが、最近とりわけ多く見られます。 もちろんいちばんよく知られた例として、私たちはすぐさま俵万智のことを思い浮かべます。たとえば

思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花

俵万智

ところで平語・俗語は、その圧倒的多数が日常生活の中で発せられます。それは普通歌や句とは無関係に、私たちのこの「ごった煮」世界のなかでごく散文的に発せられ、たちまちのうちに消えていきます。それはまさに「浜のまさご」のように無数です。
ところで、こうした平語・俗語の海のなかで、私たちはふと、息をのむような強烈な表現に出会うことがあります。 句歌一首の感動に匹敵する(あるいはそれを凌駕する)感銘を、そこに見出すことがあります。 たとえば、野口英世の老母シカの、英世に宛てた手紙。

「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました…(略)…はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。 いしよ(一生)のたのみて。ありまする。にしさむいてわ。おか(拝)み。ひかしさむいたはおかみ……」

この圧倒的な感銘を「うた」と呼ぶことには、異論のある人もあるかもしれません。けれど「うた」とはまさに、人間がどう在り、どう生きたかということの表白であるとするなら、ここにはまさに「うた」が横溢しています。

そして私たちのこの「ごった煮」の日常生活のなかにもまた、「うた」は砂に混じる砂金のように、無数に投げ出されているにちがいないのです。そして、そう考えることが、私たちの生を自由に、新鮮に、力強くする、というのが私の考えです。

森悠一(コピーライター)

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